中国の漢の国力が弱まってくると、漢の四郡も衰え、紀元後300年代には北方で力を蓄えていたコグリョ(高句麗)が楽浪郡を滅ぼした。一方、南方からもマハン(馬韓、のちのペクチェ)やチナン(辰韓、のちのシルラ)が台頭し、漢四郡はすべて滅びた。いわゆる朝鮮半島における「三国時代」のはじまりである。414年に建てられたコグリョの広開土王(好太王)の碑には、高句麗の全盛期のようすが刻まれている。
中国で随がおこると、コグリョはこれと戦い、なんとかもちこたえるが、その後、唐とシルラの連合軍により、668年に滅ぼされた。ペクチェ(百済)はコグリョと何度か戦うが、互いに一進一退を繰り返す。
384年、ペクチェには中国から仏教が伝わり、各地に仏像や寺院が建てられ、仏教文化が開花する。ペクチェは、6世紀のムリョン(武寧)王のときに最盛期をむかえる。また、シルラ(新羅)は、半島南西部の伽郡連合国をやぶり勢力を拡大。660年には中国の唐と連合し、ペクチェを滅ぼし、663年には日本の援助をえたペクチェの一族をペクチョンガン(白村江)でやぶり、続いてコグリョも滅ぼし、統一新羅時代をむかえる。統一新羅は唐の律令制度をとりいれ、仏教を国教と定め、国の統一をすすめた。 |
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タプコル公園にあるレリーフ。
日本軍が独立運動を弾圧しているようすを描いている。 |