朝鮮半島の歴史 朝鮮半島の統一国家は紀元前2世紀の衛氏朝鮮にはじまり、各時代の中国や日本の侵攻を受け、文化の上でも大きな影響を与えあいながら今日に至っています。日本とも関わりの深い歴史をひもといてみましょう。

韓民族の祖先とタングン神話


 紀元前5000年頃、朝鮮半島では櫛のような器具で文様をえがいた櫛目文土器が登場した。その土器を使っていた人たちが「韓民族」の祖先だとされている。
 韓国の神話によると、紀元前2333年に天孫とされるタングン(壇君)が韓国を建国したとされる。このことは韓国の歴史の教科書にも載っており、10月3日はケチョンジョル(開天節)、つまり建国記念日として祝祭日になっている。しかし、タングン神話はあくまでも神話で、歴史的な事実ではない。
 最初の統一国家は、紀元前195年に建国された衛氏朝鮮にはじまる。しかし紀元前108年には、中国の前漢の武帝に滅ぼされる。武帝はここに、楽浪など四郡をおいて支配した。
 この時期に、中国から進んだ文化が移入され、金銀銅などの装飾品や絹織物などの工芸文化が発達、日本など周辺地域にも広まっていった。


朝鮮半島の三国時代


 中国の漢の国力が弱まってくると、漢の四郡も衰え、紀元後300年代には北方で力を蓄えていたコグリョ(高句麗)が楽浪郡を滅ぼした。一方、南方からもマハン(馬韓、のちのペクチェ)やチナン(辰韓、のちのシルラ)が台頭し、漢四郡はすべて滅びた。いわゆる朝鮮半島における「三国時代」のはじまりである。414年に建てられたコグリョの広開土王(好太王)の碑には、高句麗の全盛期のようすが刻まれている。
 中国で随がおこると、コグリョはこれと戦い、なんとかもちこたえるが、その後、唐とシルラの連合軍により、668年に滅ぼされた。ペクチェ(百済)はコグリョと何度か戦うが、互いに一進一退を繰り返す。
 384年、ペクチェには中国から仏教が伝わり、各地に仏像や寺院が建てられ、仏教文化が開花する。ペクチェは、6世紀のムリョン(武寧)王のときに最盛期をむかえる。また、シルラ(新羅)は、半島南西部の伽郡連合国をやぶり勢力を拡大。660年には中国の唐と連合し、ペクチェを滅ぼし、663年には日本の援助をえたペクチェの一族をペクチョンガン(白村江)でやぶり、続いてコグリョも滅ぼし、統一新羅時代をむかえる。統一新羅は唐の律令制度をとりいれ、仏教を国教と定め、国の統一をすすめた。


高麗王朝の建国とモンゴル軍の侵略


 9世紀末になると、国は乱れ農民蜂起がおこり、フコクリョ(後高句麗)やフペクチェ(後百済)などがおこる。このうちフコクリョのワンケン(王建)がコリョ(高麗)を建国し、新羅王の娘をめとって統一新羅をくだし、936年に半島を統一した。
 コリョは仏教や儒教などシルラのすぐれた文化を受け入れるとともに、中国の科挙制度を取り入れ最盛期をむかえる。また国防にも力を注ぎ、1019年には中国北東部の契丹をやぶり、外敵からの防衛戦として、鴨緑江の河口から川沿いに長城をきずいた。
 しかし、1231年から6回にわたって元 (モンゴル)軍が侵攻、各地で民兵や僧兵がよく抗戦したが、1259年に降伏する。その後、高麗軍の三別抄は江華島に臨時政府をつくり、次いで珍島、済州島と追われながらも抗戦を続けるが、日本遠征の前年の1273年に平定された。
 1368年に中国で明が建国すると、コリョの指導者層は親元派と親明派にわかれ対立していた。明軍と戦うため進軍した将軍イ・ソンゲ(李成桂)は、鴨緑江まで行ったが、ここから引き返して親元派を追放。1392年には推されて王位についた。ここに、以後518年にわたる朝鮮王朝がはじまる。


新羅文化を今につたえる仏国寺


朝鮮王朝と壬辰の乱・丁酉倭乱


 イ・ソングは漢陽(現在のソウル)を首都とし、儒教を国教と定め、ヤンパン(両班)とよばれる特権階級を中心とする文治政治をすすめた。
 4代目のセジョンデワン(世宗大王)は、漢字からはなれて、庶民のための文字ハングル(訓民正音)を定めた。この時代は、科学技術の発展をみ、経済的にも安定したときで、多くの文学作品も生み出された。
 16世紀末には、日本の統一をはたした豊臣秀吉が2度にわたって侵攻し、朝鮮は多くの犠牲者を出すとともに、国土は焼土と化した。壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)である。これに抵抗し勇敢に戦ったイ・スンシン(委舜臣)将軍は、今でも韓国の英雄としてたたえられている。
 日本軍が退いた後にも、後金(のちの清)が3度にわたって侵攻し、朝鮮王朝は清に服属する。日本の徳川幕府とは国交を結び、12回にわたって使節を派遣し、対馬藩とは交易を開始した。

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朝鮮王朝時代の王宮、景福宮